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ミラノの文化・芸術を中心にイタリアの隠れた魅力を探りつつ知的好奇心を刺激する
by yuma-milano

マリア・テレジアの改革②


マリア・テレジア、ヨーゼフニ世は啓蒙君主としても知られるが、「啓蒙する」という単語はイタリア語でilluminare/イルミナーレで「照らす、明るくする、輝かせる」という意味も持つ。

オーストリアの規定に則り、ロンバルディアにおける拷問、死刑、宗教上の迫害などを廃止する勅令が出された。
ただ、これはしばしばミラノの上院では反対意見が出たのだが。

マリア・テレジアはまた勅令を発し、占星術、予言、予報の載った暦の発行を禁じた。

オーストリアは啓蒙するだけでなく、街灯に照らされた明るい街をめざした。
マリア・テレジアの後を継いだ息子のヨーゼフ二世は勅令を出し、ミラノ市民が買ったクジによる収入や家屋税などをミラノに街灯をつくる資金とした。

1784年以降、この公共事業は点灯夫、ランプ職人たちから成る団体に委ねられはしごを背にした彼らは点灯、消灯、メンテナンスや清掃などを行った。
このオイルランプの街灯はまたたく間に数を増し、ガス灯に代わるまでミラノの夜を照らし続けた。


一日の時間区分が新しくなった。オーストリアの支配下に入るまで、24時間のカウントは日没から始まっていた。
マリア・テレジアは時刻の正確さを極めるため、24時間を正午からカウントするよう指示した。
実際、日没の時間は季節による変動が大きい。正午も季節により変動するがその誤差は少ない。
1776年ヨーゼフ二世はドゥオモ内部に正確な正午を告げる日時計を作らせた。
正午になると伝令が旗を翻しながら、ドゥオモを出、別の伝令たちとリレーしながら城まで行き、午砲を鳴らして市民に正午を告げていたという。

           ドゥオモ内の日時計

マリア・テレジアからヨーゼフ二世の治世下でミラノが受けた恩恵はいろいろあるがそのひとつが市街の整備であろう。

まず、オーストリア閣僚のヴィルツェクはミラノの街の全ての通りに名前をつけ,全ての家に番地がつけられ、全てのブロックごとにそれが表示された。
番地は王宮の1から始まり5314までつけられた。今でも建物にその当時の番地
が残っているところ(Piazza Belgioioso/ベルジョイオーゾ広場)がある。

マリア・テレジアはミラノの建築にも革新をもたらした。そこには皇属の建築家となったGiuseppe Piermarini/ジュゼッペ・ピエールマリーニの姿があった。

1770年(公式には1776年)Accademia delle Belle Arti(美術学校)が設立されブレラに美術学校と共に図書館(マリア・テレジアが造った図書館を参照)、植物園、天文台などを備えた啓蒙的複合施設が造られた。

             ブレラ美術学校

植物園は元イエズス会の庭園だったが、医学・薬学の学生にとって教育的、科学的に役立つようにと造られた。

               植物園

ピエールマリーニは王宮(現Palazzo Reale/パラッツォ・レアーレ)をネオクラッシック様式に改装し王宮に面した小広場(Piazzetta Reale/ピアツェッタ・レアーレ)を造った。当時は今よりも大きかった。現在のものは1800~1900年代に手を入れられたもので、オリジナルの特徴がかなり損なわれたらしい。特にドゥオモに面した両翼の建築部分は極端に縮小されバランスが崩れてしまったという。
王宮の改築はそこに住む予定のマリア・テレジアの過大な要望と期待に沿わなければならないが、建築様式やウィーンの経済状態も鑑みなければならずピエールマリーニもかなり頭を悩ましたらしい。

Monza/モンツァのVilla Reale/ヴィッラ・レアーレはマリア・テレジアの息子であるオーストリアーエステ大公でありロンバルディア総督のフェルディナンド公の余暇を過ごす別荘としてピエールマリーニは計画していたが、大公の要望により、本格的な王宮として建設されることとなった。

          モンツァのヴィッラ・レアーレ

またミラノの中心部にPiazza Fontana/ピアッツァ・フォンターナ(フォンターナ広場 ドゥオモのすぐ裏あたり)が造られ、スカラ座に続くVia Santa Radegonda/ヴィア・サンタ・ラデゴンダ(ラデゴンダ通り)やCorso di Porta Orientale(現在のCorso Venezia-ヴェネツィア大通り)が整備された。

ピエールマリーニの作品で最も有名なのはスカラ座である。Plazzo Reale王宮の中庭にあったTeatro Ducale(デュカーレ劇場)が消失した後、マリア・テレジアの命により、S.Maria alla Scala教会の跡地に建てられた。
スカラ座は何度にもわたる改装と1943年の爆撃によりオリジナルが残っているのは正面と据え付け設備だけである。

              スカラ座

彼はまたPalazzo Greppi/パラッツォ・グレッピやPlazzo Belgioioso/パラッツォ・ベルジョイオーゾも手がけた。

1774年にはドゥオモも尖塔にミラノの象徴ともいうべき金色のmadonnina/マドンニーナが据えられた。

              マドンニーナ

こうして数々の変革をミラノにもたらしたマリア・テレジアは1780年この世を去った。
取り壊されたS.Maria alla Scala教会に代わって王家の礼拝堂となっていたS.Fedele/サン・フェデーレ教会で荘厳に葬儀が執り行われた。

            サン・フェデーレ教会
by Yumiko
# by yuma-milano | 2012-05-07 02:15 | ミラノ - 縁の顔 - | Trackback | Comments(0)

マリア・テレジアの改革①


ミラノは16世紀から19世紀にかけて長い間、スペイン、フランス、オーストリアなど外国の占領下にあった。
ミラノの方言を聞くとのそ影響がつとに感じられる。

今回はその中でも、マリア・テレジア(イタリアではマリア・テレーザ)の治世下どのような改革が行われたのかにに焦点をあててみることにする。

Maria Theresia Walburga Amelia Cristina von Habsburg/マリア・テレジア・ヴァルブルガ・アマーリア・クリスティーナ・フォン・ハプスブルグ は1717年神聖ローマ皇帝カール6世とエリザベト・クリスティーネの第二子として生まれ1740年父の急逝後、彼が1713年に制定した皇帝位継承に関する勅令(ハプスブルグ家領の不可分と女子の相続権を定めた)によりオーストリア、ハンガリー、ボヘミアなどの王位を継承した。

父カール6世は息子の死後も男子の継承者が生まれることを望んでいたため、彼女に対して帝王学を授けなかった。弱冠23歳で王位を継承したマリア・テレジアにとって、このことは重くのしかかった。
彼女は戴冠式のとき「公正と寛容」を銘にかかげた。

父の死後、プロイセンを始めとする周辺国は娘の相続を認めず、オーストリア継承戦争が勃発する。

ミラノでは1741年にミラノ女公として迎えられた。

             ミラノ女公 紋章

1745年スペインはロンバルディアに侵攻するが、マリア・テレジアはサヴォイア家のカルロ・エマニュエル三世と同盟を結び、ブルボン家の王フェルペ五世ひきいるスペイン軍を阻止し、ミラノを解放した。

1748年オーストリア継承戦争を終わらせるべくLa Pace di Aquisgrana/アーヘンの和約を結び、ハプスブルグ家の相続権を確立した。

1750年にミラノで始めた改革は10年にもおよび、その後も息子の神聖ローマ皇帝ヨーゼフニ世に引き継がれた。

              ヨーゼフ二世

オーストリア領とともにミラノでも啓蒙主義的な改革を経済、社会、文化、司法の分野で押し進めた。
行政改革中央集権制度、あらたな不動産登記台帳に基づく直接納税制を始動させたのである。マリア・テレジアの土地台帳(catasto teresiano/カタスト・テレジアーノ)カール六世の土地台帳(catasto Carlo Ⅵ)は1718年〜1760年にかけてミラノ公国の全ての土地所有者に関する国勢調査を行うという歴史的にも画期的な試みであった。

どんな小さな所有地も細かく測量され、誰が所有しているか、作物の割当はどのくらいか、またそれぞれの所有地の評価額などが可能な限り表示された。

これは当時としては革新的な制度であったが、当然反発もあった。
ミラノに広大な土地を所有する地方貴族たちは、役人たちを買収して土地の測定に手を加えさせる、つまりごまかすことに慣れており(これはその当時に限らないが)このプロジェクトの妨害工作を図った。
1733年には一旦中断されたのだがマリア・テレジアに任命されたフィレンツェの法学者Pompeo Neri/ポンペオ・ネリにの指揮のもと1749年に再開された。彼はオーストリアのロンバルディア全権大使と衝突しながらも、数年で期限付き行政改革や不動産税の公正な分配に準拠した改革を成し遂げた。
こうして1760年マリア・テレジアの不動産税が発効された。
その後、ヨーゼフ二世は協会所有地の地租免除を廃止し、不動産税はオーストリアの国庫の重要な財源となったのである。

1178年、新たな貨幣制度がミラノ公国に取り入れられマリア・テレジアは古い貨幣に替えて新しいリラ銀貨(6、25g、直径28mm)を発行した。


また彼女は小学候を設立し、義務教育を定めるとともに最初の教員養成や教育指導法のための学校をも設立した。

(次回に続く)

by Yumiko
# by yuma-milano | 2012-04-30 02:51 | ミラノ - 縁の顔 - | Trackback | Comments(2)

パヴィア修道院

ミラノから約20km南に位置し、のどかな田園風景が広がる
美しいロンバルディア平原の中にひっそりと佇んでいるパヴィア修道院



修道院の中では世界でも5本の指に入ると言われていて、
今でも厳しい修行を続けている修行僧が、自給自足で
生活している僧房と教会部分から成っており、
1396年ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ
菩提寺にしようと着工し、約160年の歳月をかけて建設された。









この間にミラノのドゥオモ大聖堂建設に関わった著名な
建築家が招かれていたらしいので、柱部分や内部などがミラノの
ドゥオモとよく似ているのはそのためかもしれない。

ただゴシック様式にしては「高さ」が足りない?!と思ったら
なんとこのファザードは未完成だそうだ。


    (プロジェクトの段階でのファザード・デザイン)



このファザード・デザインを見る限り、上部分が建設されずに
終了したらしい・・・

薄暗い廊下に目をやると、そこに薬草だろうか、
それを乾燥させたもの(まるで押し花のような感じ)の
一つ一つに少しずつ説明文などを添え、壁一面に
並べてあった。

イタリアにはErboristeriaという薬草採集、保存、調合などの
学問分野があり、そして薬草専門店も数多い。
東洋でいうところの漢方と同じ感じだと思われる。

そういえばフィレンツェの世界最古の薬局で作ってる化粧品が
日本でかなり有名になったが(サンタ・マリア・ノヴェッラ)
あれもドミニコ会の修道僧たちが薬草を調合したのが始まりだった。
ハーブも奥が深いのである(詳しくないけど・・・)

その廊下の一角に黒い扉が閉ざされている。
Clausuraと書かれた、テコでも動かなそうなものものしい扉。



修道士に対する外出禁止や世俗との交流禁止、俗人の
出入り禁止、隔離された場所・・・という意味だが
ここの修道院ではどの意味なんだろうか?
(修道僧がお店でハチミツなどを売っていたので
交流禁止というワケではなさそうだが・・・)



小回廊は14世紀末頃に出来たようだが、これもミラノの
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の回廊によく似ている。



大回廊は125m×100m、立ち並ぶ柱は122本
すべての柱にはそれぞれ神々の彫刻が並び、このなかで修道士たちが
静かに祈りをささげながら生活している。
修道士たちの僧房は現在では24室と言われる。
この回廊を見ると思わず今、自分がいつの時代にいるのか忘れてしまう。



そしてレオナルド・ダ・ヴィンチのパトロンだった
ルドヴィーコ・イル・モーロと妻ベアトリーチェ
仲良く並んだお墓を見るとヴィスコンティ家からスフォルツァ家に
権力が移ったミラノにまで思いを馳せてしまう空間が
荘厳な雰囲気の中に広がっている。

 by Maki

# by yuma-milano | 2012-04-24 00:42 | イタリア文化 | Trackback | Comments(0)

イタリア 光と闇 ③ 黒い花嫁

ミラノから北に約50km、コモ湖近くにスキニャーノという、
人口わずか920人の小さな村がある。
そこでは古くから結婚が決まった娘は頭から足の先まで
なぜか「」づくめにする事になっていた。
アクセサリーの類いも全くなしで、つまり葬式の時と
そう変わらない衣装であったという。



写真が残っているので、おそらく19世紀終わりから20世紀
初め頃の話だと思われるが、その土地では領主が「結婚初夜の前に花嫁と添い寝する」という
今では考えられない慣習が常となっていたそうで、
それを避けるために「今から結婚する」という事を領主や土地の権力者に
悟られないための、若い女たちの密やかな「抵抗」だったらしい。
そして黒づくめである、という事はすなわち「まだ領主の
お手つきになってない」との意思表示でもあった。

いわゆる初夜権である。

スキニャーノのカルリーナレンツィーノはある10月の肌寒い日に
結婚式をあげた。
もちろんカルリーナは「黒い花嫁」だ。
結婚式の次の日の朝もカルリーナは黒い衣装のまま、新郎と一緒に
ミラノへ新婚旅行へ出かけた。
もちろん大聖堂ドゥオモを見学し、霧の出た日だったが
ドゥオモの頂上の黄金に輝く聖母マドンニーナを拝みに
二人は頂上へ上がる。新婚らしく手はしっかりとつないだままで・・・

マドンニーナに近づくにつれ、霧はどんどん深まり、視界が
遮られたと思った瞬間、いきなり黒い「物体」が新郎新婦の前に
現れ、恐れおののいたカルリーナは思わず夫の手を離してしまった。

それからカルリーナは何かに取り憑かれたように急に
走り出し、彼女の中でわだかまっていた「大きな罪の意識」と共に
彼女の「精神」までマドンニーナへ向かっていく・・・
その後カルリーナは「もぬけの殻」になり、ただの肉体だけになった。

次の年の8月、カルリーナの胎内に新しい命が宿っていたが
彼女は夫レンツィーノには何も言わず、沈黙したまま
どこかへ去ってしまった。
レンツィーノはミラノまで出かけて探しに行ったが、
とうとうカルリーナを見つける事も、その「精神」を失った
「肉体」さえも見つける事は出来ないままだった。

それから何年かして、ミラノ大聖堂の頂上、聖母マドンニーナの
近くで写真を撮ると時々黒っぽい、なんとなく女性のような物体が写り、
うっすらと真珠のような白い涙を流しているらしいと
いう噂が流れた。

この話は「Milano Segreta/ミラノの秘密」という2000年に発行された
本に載っていたのを訳したものである。
著者シモネッタ・ヴァレンツィアーノが注釈で「こうした事は
今から30〜40年前まで行われていたらしい」と書いている。

なんとなく伝説っぽい感じもしないでもないが、イタリアには
実際に色々な地域でこうした「初夜権」が存在したと言われている。

少し話しが違うかもしれないが、イタリアには1981年まで
「強姦罪等の犯罪については、加害者が被害者との
婚姻により(被害者が)治癒され、それで刑の免除」などという
意味不明な信じられない刑法第544条というのがあった。
そんなバカみたいな法律がほんの最近までまかり通っていたのだ。
女性の人権も何もあったもんじゃない。

伝説化された感のある「初夜権」も、なんだか無きにしもあらず・・・と
思ってしまうのは、私一人ではないだろう。

 by Maki


# by yuma-milano | 2012-04-04 18:51 | イタリア文化 | Trackback | Comments(0)

レオナルドの「アンギアーリの戦い」本格調査スタート!



とうとうレオナルド・ダ・ヴィンチの幻の絵画「アンギアーリの戦い」に関する調査が始まったらしい。

こちらのブログでも去年の9月末頃に書いていて、その時点では
36年にも渡る「アンギアーリの戦い」に関する研究にスポンサーが
見つかり、2012年から本格調査が始まるらしい、とご紹介した。

そして!今日はLa Repubblica新聞から最新情報をお知らせしたい。




         (写真はLa Repubblica新聞より)

なんとセラチーニ氏、ヴァザーリの絵に小さな穴を6つ開けたようだ!
約4mm〜2cmほどの穴を狙いをつけた所(セラチーニ氏は『馬』の部分を推している)に
開けて、医療用の内視鏡みたいなものでヴァザーリの絵の、奥にあるものを根気強く探す・・・
気が遠くなるような仕事である。

1から6まで数字をつけられた穴の、3、5、6からは
何も発見されなかったようで調査チームは少々ガッカリ・・・
1、2の穴からも、これと言った決定的なものは見つからず。
そしてこの調査に批判的な人も、少なからずいるのも確かである。

「ヴァザーリの絵を傷つけて、そして結局何も見つからなかったら、
どうする気だ?」とか、
「もし、何か見つかったとしても、5世紀も経った今、
朽ち果てた絵の具の残りが見つかる程度だ」
とか、まあ色々と非難が上がっている。

しかし! 
4の穴の奥から色のついた「塊」のようなものを発見。



黄色っぽいベージュの粉のようなものが出て来た。
これは筆で塗った跡らしい・・・との事。
そしてレオナルド・ダ・ヴィンチが繰り返し使ったとされる黒の染料が!!

この黒は二酸化マンガンのようで、ちょうどレオナルドの時代に使われていたものと非常に似ていて、
彼独自の配合で作られた黒と酷似しているらしい。


           (東方三博士の礼拝)


             (洗礼者聖ヨハネ)

レオナルド・ダ・ヴィンチの「東方三博士の礼拝」や
洗礼者聖ヨハネ」、そして何より
モナリザ」の中に見られる黒と
「かなり近い」との結果がでたようだ。
そしてこの黒もベージュの粉のように「筆で塗ったような形跡がある」



その黒の染料に若干まき散らしたような赤色の粉も見つかった。
これも「東方三博士の礼拝」でレオナルドが使った赤と類似しているのだとか。



新聞にはもう少し穴を開けてみるかもしれない(↑印がついてる部分)と
書かれてあったが、セラチーニ氏は「もう少しだけでいいから、
大きな穴を、自分が思っている場所に開けてみるだけで十分に探せる」との事。

非難や大変な困難もあるだろうが、ここまできては引き返せないだろう。
何より何百万ユーロというすごい金額も動いているのだ。
「絶対にこの下にアンギアーリの戦いがある事は間違いない!」と
思い続けて(研究し続けて)37年

ヴァザーリの絵を若干犠牲にしてしまった今、37年間の信念と
最新テクノロジーが勝つか、5世紀という長過ぎる年月に
負けてしまうか・・・
セラチーニ氏の挑戦は始まったばかりである。


 by Maki

# by yuma-milano | 2012-03-17 09:19 | イタリア文化 | Trackback | Comments(0)

イタリアの本棚 トップ5

今回はちょっと趣向を変えて・・・

ふとイタリア人は今、何を読んでいるのか? と興味が沸いた。
そこで、先週の本の売り上げトップ5

1位:La gioia di scrivere. Tutte le poesie.



なんと詩集!が一番売れたらしい・・・
しかもポーランドの詩人ヴィスワヴァ・シンボルスカ1945年から
2009年までの作品を集めた詩集だ。

1996年ノーベル文学賞受賞。
この2月1日に肺がんで亡くなった。享年88歳。

2位:Amore, zuccehro e cannella.



ロンドン出身のフリーのジャーナリスト、アミー・ブラトリー
翻訳小説。(原題:The Girls' Guide to Homemaking)

恋人シモンが主人公ジュリエットの一番の親友と・・・とよくある
横恋慕の話。
苦悩する主人公・・・亡き祖母の面影が彼女を救い、受けた傷を克服していく。

もちろん女性の読者がほとんど、だろう。

3位:La carta piu' alta.



マルコ・マルヴァルディの推理小説。
ピサ出身の37歳。研究者(化学)としての顔も持つ。
これまでに8冊の小説を出版しているが、その内の4冊はシリーズ物で、
これが4冊目になる。舞台は常に同じBAR、同じ主人公たち(4人)。

しかし、トスカーナ方言が結構出てくるので、
それを解しないと読めない(楽しめない)のが難点。

4位:Diario di una schiappa. La dura verita'.



4位にランクインしたのはアメリカの児童書翻訳版。
作者のジェフ・キニーはゲーム・デザイナーだったが、2007年に出版したDiary of a Wimpy Kidが大当たり!
翌年にはイタリア語版が出版され、次々に続編が出来て
あれよあれよと言う間に世界中でなんと3,000万部!!!!が
売れたらしい・・・(ダン・ブラウン並みである)

映画化もされたのだとか(アメリカ的だなぁ)
イタリアの子供たちはこういう本を読んでいるらしいが、面白いのは
児童書だけで見ると、2位にはサン=テクジュペリ「星の王子さま」が
ランクイン!
やはり、王道。最近は素敵なPop-up絵本なんかも出ていて気になる。

5位:Il diavolo, certamente.



シチリア出身のアンドレア・カミッレーリの最新作。

33編のストーリーから構成されている小説。
人間の行為の中の悪魔性というか、悪徳に焦点をあてながらも、
人間の運命だとか幸福について、読者の判断を仰ぐ・・・という感じになっている。

彼はイタリアではかなり有名で、御年87歳
それでも毎年かなりの数の本を精力的に書き、ファン・クラブまであって
人気者だ。日本でも彼の本は2冊ほど翻訳されて出ていると思う。

 by Maki

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# by yuma-milano | 2012-03-01 01:25 | イタリア文学・書籍 | Trackback | Comments(0)

Sant'Eustorgio/サンテストルジョ教会② 聖人たちと美術館

この教会にはミラノの9番目の司教Sant'EustorgioⅠ/サンテストルジョ一世(?~350年)が埋葬されており、後にSant'EustorgioⅡ/サンテストルジョ二世(?~518年)によって正式な聖堂となったが原形はほとんど残っていない。

            (Sant'Eustorgio)

Sant'EustorgioⅠサンテストルジョ一世は聖堂に保存されてる聖人となった4人の司教の最初の一人である。教会の主祭壇の下の棺にはS.Onorato/サントノラート、S.Magno/サントマーニョが眠っている。4番目の聖人Eugenio/エウジェーニオはCarlo Magno/カール大帝(742~814)の相談役、聴罪司祭でもあり774年アンブロウシス式典礼が廃止の危機に陥った時、それを救ったといわれている。彼の遺骨は左側の最初のcappella/礼拝堂に納められている。

教会は1220年にドメニコ会の手に移り、彼らのスタイルに合わせて変えられた。ドメニコ派が現れた時期は西洋におけるキリスト教世界が異端によって重大な危機に陥った時期と合致する。

殉教者と呼ばれたS.Pietro da Verona/ヴェローナのサンピエトロはロンバルディアにおける異端審問書の長であった。1252年ミラノは戻る途中、森の中で斧で一撃され殺された。
サンピエトロの姿はすべて頭に刃がささった形で表現されている。
(彼の絵は偏頭痛の治癒に効果があるといい伝えられている)
1600年に教会の入り口の前に頭に刃がささった彼の像をいただいた柱が建立された。

     
ドメニコ派の三大聖人S.Pietro da Verona/ヴェローナのサンピエトロ、San Domenico/サンドメニコ、神学者であり哲学者でもあったTommaso d'Aquino/トマス・アクィナスはこの教会で祈り説教し働いた。トマス・アクィナスははここで「神学大全」の一部を執筆したと言われており、彼の右手の親指が聖遺物としてここに保存されている。

1297~1309年にかけて今までの教会のスタイルとかなり異なる鐘楼が建てられた。ミラノで初めて時計付きの鐘楼というだけではなく、通常十字架がある最上部に八芒星がそびえているのである。これは北極星とだもいわれ、錬金術で使われるシンボル(中心、極、霊的な源)である。キリスト教会でありながら秘教的なシンボルが使われている。(サンマルコ教会でも多々秘教的シンボルが見られた。詳細はSan Marco ②謎に満ちた教会参照)

               (鐘楼)

サンテストルジョ美術館

           (黄色の部分が美術館)

教会に左側にある廊下が美術館の入り口となっており、そこでチケットを買うことが出来る。廊下の先、右側に地下におりていく狭い階段がある。その地下に初期キリスト教時代の最初の教会跡がある。そこには初期キリスト教時代とキリスト教以前の異教の墓が混在している。

313年のコンスタンティヌス(キリスト教を保護し、公認宗教としたローマ皇帝)の法令以前に迫害された犠牲者たちが埋葬されている。
そのため、ミラノの守護聖人となったSant'Ambrogio/サンタンブロージョに「殉教者の墓」と呼ばれた。

地下にはいってすぐに展示してある石板にトーガをまとい両手を挙げて祈りを捧げる若者の姿が刻まれている(推定年代300~400年)。
この両手を挙げて祈るスタイルは現在でもSant'Eustorgio/サンテストルジョの信者たちに受け継がれているという。

  
ヴィスコンティ家もこの教会に多額の寄付をしている。なかでもGian Galeazzo Visconti/ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティは新しい図書館の建設に大枚をはたき、主祭壇にキリスト受難を描いた大理石の板絵を作らせた。

ヴィスコンティ家の礼拝堂、聖トマスの礼拝堂にはStefano Visconti/ステファノ・ヴィスコンティの墓碑としてGiovanni Balduccio/ジョヴァンニ・バルドゥッチョの作品が置かれ、1359年Bonino da Campione/ボニーノ・ダカンピオーネによって修復された。

1462年フィレンツェの貴族Pigello Portinari/ピジェッロ・ポルティナーリはフィレンツェの銀行の支店経営のためミラノにやって来た。滞在中にルネッサンスの傑作として有名なCappella Portinari/ポルティナーリ礼拝堂を建てた。

            (ポルティナーリ礼拝堂)

壁、丸天井全てVincenzo Foppa/ヴィンチェンツォ・フォッパによるフレスコ画が描かれている。
母親を足蹴にした罪によって切り離された足をサンピエトロが接合したという「足の奇跡」。
広場で祈りを捧げ、強い陽射しから人々を守るために雲を呼び起こしたという「雲の奇跡」。
聖母マリアと幼子イエスに変装した(ただし角がついている)悪魔サンピエトロが聖体で打ち負かしたという「偽りの聖母マリアの奇跡」等。

礼拝堂の中央にはと殉教者サンピエトロの遺体が石棺(ジョヴァンニ・バルドゥッチョ作)に安置されている。
このカッラーラ産大理石の石棺は八本の角柱に支えられ、それぞれの柱には美徳をあらわす彫像が施されている。その角柱の上に殉教者サンピエトロの生涯を描いた大理石板がある。

この石棺の後ろ、礼拝堂の奥に殉教者サンピエトロの前に跪いたピジェッロ・ポルティナーリの姿が描かれている。


Sant'Eustorgio美術館
開館時間:月〜日 10:00〜18:00
入場料 :6ユーロ (60歳以上、学生 3ユーロ/14歳以下 1ユーロ)

by Yumiko
# by yuma-milano | 2012-02-22 00:43 | イタリア文化 | Trackback | Comments(2)

ミラノ中央駅21番線の意味

ミラノ中央駅21番線・・・この場所がミラノにとっては
重要な意味を持つが、知ってる人もそれほど多くはないだろう。


        (1930〜1940年頃のミラノ中央駅)

1944年1月30日605人のユダヤ系イタリア人がミラノ中央駅21番線
一斉に集められた。
止めてあった貨物列車にぎゅうぎゅうに詰め込められて、
静かに列車は発車した・・・
7日間の旅の行き先はアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所
この寒い、底冷えのするミラノから、雪が降り続くポーランドまでの、
立ったまま、食料も水もないまま、着の身着のまま、
子供達は何故こんなヒドい目にあうのか分からないまま、
605人がひしめき合う貨車の中は、想像を絶する
状況であったに違いない。


      (ミラノ中央駅21番線にある当時の貨車)

なんと1歳の赤ん坊から14歳までの子供達も40人ほどいたらしい。
そして最年長は88歳のDina/ディーナさんだった。
その中に当時13歳だった少女Liliana Segre/リリアーナ・セグレさんが
いる。


      (リリアーナ・セグレとお父さんのアルベルト)

彼女と一緒にお父さんもアウシュビッツへ。
2月6日にアウシュビッツへ着いた時に、生存者はすでに500人
病人や老人、赤ん坊は到着したその足でガス室へ送られたという。

そして息も絶え絶えにリリアーナとアルベルトはなんとか到着。
すぐに引き離されて離ればなれになり、
それ以後、リリアーナさんは父アルベルトに二度と
会う事は叶わなかった。

リリアーナさんはミラノ中央駅21番線から強制連行された605人中、
たった20人の生存者の中の一人である。


        (リリアーナ・セグレさん)

彼女は「忘れてはいけない歴史を、生きている限り、若い世代に
語っていきたい」と様々な場所で証言を繰り返している。



蛇足だが、イタリアの現代作家でユダヤ系の人は少なくない。
作家プリモ・レーヴィもアウシュビッツからの生還者であり、
彼の「Se questo e' un uomo:1947/
邦題:アウシュビッツは終わらない」では

 ー これが人間か?考えてみてほしい、泥にまみれて働き、
     平和を知らず、パンの欠片を争い、他人がうなずくだけで
     死に追いやられるのが・・・考えてみてほしい、
     こうした事実があったことを ー

という詩で始まっている。

プリモ・レーヴィは1944年2月22日にカルピ駅から
アウシュビッツへ送られ、化学者でもあった彼は
初めから強制労働に酷使されていた。
その他、アルベルト・モラヴィアナタリア・ギンズブルグ
詩人ウンベルト・サバもユダヤ系イタリア人だ。



このミラノ中央駅21番線(地上にある21番線ではなく、
駅の地下に当時使われていた別の線路がある。そこは1944年当時のまま
現在に至るまで放置されていた。)を「ホロコーストの歴史」に
関するメモリアル博物館にしようという計画が持ち上がっている。
すでに工事は始まっているようだが、予算500万ユーロを捻出するのは
簡単ではない。

寄付を募ったりしたが4万ユーロが集まったのみで、
博物館を完成させるにはまだまだ遠い。

 by Maki

# by yuma-milano | 2012-01-31 23:40 | ミラノ - 縁の顔 - | Trackback | Comments(2)

百貨店 ラ・リナシェンテの誕生秘話


       (1898年頃のラ・リナシェンテ)

ミラノ旅行の際、かなりの頻度でお世話になるであろう、
イタリア唯一の百貨店ラ・リナシェンテ

このラ・リナシェンテがミラノに誕生したのは1865年
場所も今の所ではなく、もう少し奥まったvia Santa Radegonda/
サンタ・ラデゴンダ通りにオープンした。



オープンの立役者はボッコーニ兄弟。父親が生地の行商人をしていた関係で
幼少の頃から生地、仕立てなどに親しんでいたのだろう。
このフェルディナンド・ボッコーニ氏、今ではミラノ・ボッコーニ大学の
創立者としての方が有名だが、このフェルディナンドと兄弟のルイージが
ミラノに最初のラ・リナシェンテを開いたのである。
とは言っても、小さな店で、名前もそのまんまの「ボッコーニ兄弟の店」だった。

一番最初は紳士の既製服・・・オーダーして仕立てる、というしか方法がなかった時代に、ボッコーニ兄弟はなんと
既製服をパッケージして」売り出したのである。

彼らのアイディアは、もちろんパリ1852年に出来た世界初の百貨店
Le Bon Marche/ル・ボン・マルシェがお手本である。

そして今では当たり前の展示方法である、棚に商品を並べて見せる・・・
というのをミラノで初めて実施したのがボッコーニ兄弟の店だった。

小さな紳士服の店は大当たり!
連日大勢のミラネーゼが押し掛け、小さな店は上を下への大騒ぎだ。
御婦人にも対応するため、婦人用の既製服、小物などの
品揃えも徐々に増やしていく。

大盛況のオープンから約10年後の1877年
現在の場所、ミラノ大聖堂のすぐそばに規模も大きくなって再オープン。
この建物の規模を見るだけでも、当時どれほど盛況だったのか
手に取るように分かる。



名前もボッコーニ兄弟の店から「Alle Citta d'Italia/
アッレ・チッタ・ディタリア」と変化した。



ル・ボン・マルシェも色々と集客のために広告を打ち出し、様々な工夫を
凝らして大量消費時代を導いてゆくが、このアッレ・チッタ・ディタリア
それに倣って、どんどんと売り上げを伸ばしていった。


            (1884年の夏用広告)


            (1889年頃の店内の様子)


優雅な店内。そして購買意欲をそそる陳列・・・
芸術家たちもこぞって店内に集まり、社交場とも化して、さながら
文化サロンの趣きもあったという。

しかし不幸な事に1917年火災発生
建物はほぼ破壊されてしまったのである!

その後1919年から1921年の間にイタリア各地に
次々とアッレ・チッタ・ディタリアが誕生。
全国で9店舗を展開するまでに成長した。
それまで様々独立して存在していた銀行が、美容室や理容室が、
オーケストラ付きのティールームが、家具屋が店内に集結して、
人々はどんどん店に足を運ぶ事になる。

破壊してしまったミラノの店舗はその後1921年4月21日、再び甦る。
詩人のガブリエーレ・ダヌンツィオ再生されたこの百貨店を
「La Rinascente/ラ・リナシェンテ」と命名し、
全国のアッレ・チッタ・ディタリアもそれに倣って名前を変えた。



そして1920年代頃から有名なイラストレーターなどが手がけた広告、
ポスターなどで増々人気を博していく。



ラ・リナシェンテの広告を手がけたマルチェッロ・ドゥードリッヒなどは
その後の「イタリアの奇跡」と呼ばれた経済成長と共に、様々な広告を
発表し、イタリアの「デザイン」に一役買う事になるのである。

現在ラ・リナシェンテはイタリア国内で10店舗を展開中である。

 by Maki

# by yuma-milano | 2012-01-20 00:05 | ミラノ -秘すれば花 - | Trackback | Comments(0)

ペトラルカのミラノ滞在

ラテン語で言うとペトラルカ、本名フランチェスコ・ペトラッコ1304年アレッツォで生まれた。



ペトラルカは自分を「さすらい人」と呼び、彼の人生は旅から旅への
連続であったと言っても過言ではないだろう。
次から次へと居住地を変えたペトラルカが、一ヶ所にずっと居を構えて
住んだのはアヴィニヨン1326年-1337年)と、なんとミラノであった。

彼のミラノ滞在は1353年から1361年8年間にも及び、
他の居住地と違って、ミラノが彼にとってもかなり重要な場所であった事が
うかがえる。

1353年6月ペトラルカはミラノ大司教ジョヴァンニ・ヴィスコンティ
懇望を受け、ミラノ入りする。


          (聖アンブロージョ教会)

聖アンブロージョ教会のほど近く、ランツォーネ通り
ヴィスコンティ家から住居を与えられ、そこに住んでいたらしい。

そこから数メートル行くと、小さな、本当に小さな見逃してしまいそうな教会がある。



ペトラルカがミラノ滞在中、かなり気に入って通っていた
サンタンゴスティーノ教会である。
この教会はミラノの聖人アンブロージョが西暦387年アウグスティヌス(アゴスティーノ)の洗礼式を行った事で有名だが、
そういう歴史もあって、ペトラルカはこの小さな教会を殊さら
愛していたらしい。
住んでいた家からも近いので、おそらく毎日のように通ったのでは
ないだろうか。





そしてミラノ滞在中、夏に訪れたのでは?と言われているリンテルノ農園
現在のミラノ市の西部、デッレ・カーヴェ公園の一角に位置している。
リンテルノとは、中世における修道院付属の荘園という意味で
都市周辺部に点在し、このペトラルカも訪れたミラノのリンテルノ農園は
12世紀頃に出来たものと言われている。





ペトラルカが滞在していた頃はInfernumと呼ばれていたようで、
これはおそらくロンゴバルド語に由来するものだろうと思われるが、
はるか遠い土地」「奥深い場所」を意味した。
人ごみを嫌ったペトラルカは、ここで孤独生活
探求しつつ過ごしたのかもしれない。

ペトラルカのミラノ滞在に関して、彼を敬愛していたボッカッチョ
「フィレンツェの宿敵であるミラノの君主と手を組み、
事もあろう事か、そこへ滞在するなんて!」とかなり批判したようだが、
ミラノ専制君主のもとでの「自由」と「孤独」を
ペトラルカは楽しみ、自己の文学活動に専念したのではないだろうか。
そうでなければ「さすらい人」が8年もの長き間、一ヶ所に定住するワケがない。

このリンテルノ農園は、中世の面影をほぼそのまま残し、
当時の農園の様子を今に伝える事でも、そしてペトラルカが滞在し、
彼が見たであろう景色とほぼ同じ景色を
現在でも堪能できる事でも注目を集めていて、なかなか興味深い。

 by Maki

# by yuma-milano | 2011-12-29 03:14 | ミラノ - 縁の顔 - | Trackback | Comments(0)
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